横浜市青葉区奈良のこどもの国通り、バス停奈良橋近くの高台に宗派は曹洞宗(禅宗)・大峰山(山号)・松岳院(寺号)がある。ここは江戸時代、武蔵国都筑郡奈良村だった場所である。
當山は元亀三年(1572年)に東京屈指の名刹、青梅市にある天寧寺の八世 正翁長達大和尚(1601寂)によって開山された。寺号はもともと正覚院(石丸家二代目定政公のご戒名)であったが後に松岳院と改められた。開基様(財政的な支援により建立を可能にした世俗の者)はその当時に奈良村を知行した旗本の石丸有定公である。當山は何度かの火災により記録を失っている。残った資料によると開基を有定公となっているが、初めて奈良村領主となったのは、子の定政公で元和五〜六年(1616年〜1617年)頃と考えられる。有定公存命中のことである。奈良村に陣屋を置き居住した定政公は、寛永八年(1631年)に父有定公が没したので、松岳院を埋葬地として、父を當山に葬った。この為有定公を開基として仰いだのであろう。
江戸時代の石丸家は徐々に繁栄し、三代目定次公の時には、御小姓、御書院番と進み寛文三年(1663年)には大阪町奉行へと出世していき、奈良村の他に上野国、上総国、下総国、河内国あわせて2240石を知行したと資料に記されている。その恩恵を菩提寺である當山に境内ばかりではなく、寺領の田畑を広く授け、奈良村には大阪奉行だった時に、大阪の住吉大社から勧請し村の鎮守として神社を建立。今日においても奈良の鎮守様としてみんなに慕われている。現在でも歴住職塔の墓地敷地内に奈良村領主石丸家三代〔有定公(法名般西 85歳)・定政公(法名身西 70歳)・定次公(法名月舟 75歳)〕の墓碑が三基並んでいる。これら三代の墓碑は定次公の子である定勝公によって建立されたものである。向かって左の定政公の墓碑の横面に『石丸定勝ノ施』と記されている。また定勝公は、延宝七年(1679年)奈良村の盛円寺(日蓮宗)に父である定次公供養のため梵鐘を寄進している。なお三代の墓碑ともデザインが同じことから、この時に改葬したものであろう。定勝公は、元禄八年(1695年)四十二歳にて没した。浅草の浄念寺(池波正太郎著書、時代小説「鬼平犯科帳」の舞台となった浄土宗の由緒あるお寺 台東区蔵前4-18-11)に葬られ、のちの石丸家代々の埋葬地となった。
現在の當山の本堂の正面には再度の火災に遭いながらも難をのがれてきた本尊釈迦如来が鎮座し、その脇侍として文殊菩薩(右)、普賢菩薩(左)がまつられている。大本山は福井県の永平寺と神奈川県鶴見の總持寺である。當山の末寺には定方寺(神奈川県大和市)、瑞円寺(奈良村・廃寺)がある。
昭和五十三年に本堂を檀信徒の寄附により耐火造りに再建され、時代の流れの中において平成二年 都市計画法の区画整理事業に當山境内地及び墓地がその中に位置して工事を余儀なくされ、檀信徒と共に『宗教法人松岳院境内墓地整備委員会』を組織し工事を施工する住宅都市整備公団と慎重に会議を重ね檀信徒各位の協力のもと平成六年に境内地及び墓地整備が終わりその年の三月に墓地の開眼法要を厳修する運びとなる。またこの開発により村から都市へどんどん移り変わり将来の當山繁栄に限られた境内地面積での運営に危惧の念を抱き多目的利用の客殿建立が必要と確信し、檀信徒賛同のもと平成九年、客殿及び開山歴住堂・位牌堂の落慶に至った。また、平成七年に鐘楼堂、平成十九年には寺務所を建立。以後、多数の檀信徒各家の仏事と地区内外の方々にご利用いただいている。
奈良時代武蔵国都筑郡の一部
江戸時代都筑郡荏田村、奈良村、上鉄村、大場村、鴨志田村等、十五の村に分かれる
明治二十二年(1889年)都筑郡山内村、中里村、田奈村の三つの村に分かれる
昭和十四年(1939年)都筑郡は横浜市に編入し港北区が誕生。青葉区、緑区は港北区の一部
昭和四十四年(1969年)港北区より緑区が分区。青葉区は緑区の一部
平成六年(1994年)緑区より青葉区、都筑区が分区